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続いてどうぞ。
もういっちょう。
彼らが、サドゥです。
なんとなく見たことある方もいると思いますが
どうやら日本での知名度は結構低いらしい。
確かに僕らもほとんど知らなかったし。
いきなりですがちょとウンチクを。
ヒンドゥ教では理想的な一生は4つの段階
(四住期)からなると言われています。
・学生期(がくしょうき)・・・訓練と教育を受け、労働する期間
・家住期(かじゅうき)・・・一家の主となり家族をつくり、社会で活動する期間
・林住期(りんじゅうき)・・・俗世との縁を断って森に退く期間
・遊行期(ゆうぎょうき)・・・隠者となる期間(徐々に解脱に思いを寄せ生きる)
この遊行期にあたる修行僧が、サドゥ。
通常はこの順番に人生を歩んでいくところを、
順番をすっ飛ばして いきなり遊行期に突入してるのが大半です。
僧であり仙人、 世捨て人で俗世に興味が無い。
期待通りなかなか強烈。
もう少し写真をご覧ください。
さすがクンブ・メーラ。
数十万人とも数千万人(さすがに無いと思うけど)
とも言われるサドゥがインド中から集まってきている。
ガート沿いを歩くとサドゥにジャンジャン遭遇できる。
修行も面白い。
最後の写真の彼は「右腕を決して下げないの刑」
(腕は完全に細くなってるし爪もスゴいことになってる)
その2個上のおじいちゃんの弟子は「決してしゃべらないの刑」
(会話はひたすらメチャメチャな英語との筆談)
という、つい修行なのに「刑」と書きたくなるような、
芸人絡めたらTVの企画ができそうな事をしている。
完全に別次元の存在だ。
だが一緒に台の上に座ったりして
共に時間をすごしながら
彼ら周りの人々を観察するにつれ
印象は多少変わって行った。
やたら優しかったり
バイクで乗りつけたり携帯で話してたり
川からあがった時すごく痒そうに
ドレッド頭かきむしってたり(かなり笑った)、
つっこみどころ満載、
つくりあげていた「仙人イメージ」は
木っ端微塵に破壊された。
彼らの容姿は挙動は勿論のことだが
非常に興味深かったのは
周りの一般インド人の対応だ。
強烈なインド人だがサドゥを前には一般人。
サドゥ、大人気。
来る人来る人サドゥにひれふし
身体に触れてはお祈りをし、お布施を残していく。
(勿論そうじゃない人もいっぱいいるけど)
結構、いやかなり真剣。
後にあるインド人にサドゥへの好待遇について聞いたのだが
「目上の者に対する敬意」だろうとのこと。
ほとんどの人は四住期における
学生期もしくは家住期を生きている中で、
その先の遊行期を生きるサドゥは先輩という訳。
なるほど。
拝んでいたインド人達はサドゥに神聖な何かを見ていたような
印象を僕は持ったけど、そういう事もあるかもしれない。
*
*
インドを旅して4ヶ月、
色々考えることはあったが
僕個人としては、大きな1つは
宗教に対してのとらえ方だと思う。
旅行に出る前は「宗教」という
ガチガチの枠を作って色々なものにはめていた。
ヒンドゥー教、経典、儀礼、お祭り、、、。
でも今は宗教と、生活に根付いた文化や常識、
この境界線が非常に緩いものになっている。
たとえば今回ふれた四住期の考え方は
インドに強く根付いているような気がする。
4ヶ月間で出会ってきた
勉学に励む事に胸を張る若者達、
社会や子供達のためと毎日を生きる大人達、
自身の成長や成功を求めるのではなく
人生の終わり方を考える年配者達。
その言葉を使わずとも、
彼らにしみついた共通の考え方として
「四住期」があるように感じた。
日本人が持っている様々な風習も
外から見れば特異だし「宗教的」と思われている。
神社でお賽銭を投げるのと
サドゥに10ルピー渡して額に灰をつけてもらうのは
なんら変わりない行為なんではないか、
そう感じるようになった。
非常に印象的だったこの女性。
よれよれの状態でサドゥの足や身体を触れ、
とても長い時間、何か言葉を発しながら祈っていた。
額に灰をつけられる際の目に涙をためた表情や、
その後思いつめたような表情で立ち尽くす姿に、
何故かとっても心を打たれた。
宗教だなんだという枠ではめていたら
得られなかった感動だったと思う。
世界遺産を見るためというより
とにかく世界中の人に会ってみたい!
という思いから開始したこの世界旅行。
これからも色々な国の色々な文化の人達
とふれ合っていけるだろう。
そのときは、自分の中にセットされている
様々な常識や期待や自我の意識をとっぱらって、
彼ら彼女らと向き合って行こう。
そうしたら、また今回みたいに
胸に残る体験がきっとできると思う。