イランでの私は、
法で定められた服装「ヘジャブ」がとにかく嫌で、
この地に生きる女性たちが恋愛も自由じゃないとか、
お嫁に処女でいかないといけないとか、
そういうのが納得できなくて、
なんとか自分の中での「オトシドコロ」を探していた。

歴史も宗教もちゃんと知らないくせに。

(前編はこちら)

知り合った女性たちがあまりに素敵で、いい人で、
だから、彼女たちが不憫だった。
だから、彼女たちをただ不憫で終わらせたくなかった。
あたしは服装も性も自由な日本に生まれてラッキー!なんて、
そんな気にはなれなかった。
どうしていいか分からなかった。

 

そんなとき、あるオジサマと知り合いになった。
彼から聞いた昔話は、私が知らなかったことだらけだった。
30年前、女性達はスカーフをしていなかったと。
自由な服装で街を闊歩していたと。
街のあちこちにバーがあって、誰もが酒を飲めたと。
ほろ酔いの男たちの歌声がどの街角からも聞こえてきたと。
イランの通貨リヤルが強くて、日本人も出稼ぎに来ていたほどだったと。
イラン革命ですべてが変わってしまった、と。
あと、兵役が辛かった話。
(今も兵役はすべてのイラン人男性に2年間義務付けられている)
イラン・イラク戦争は8年もやったんだよ。長かった。と。
たくさんの友達が死んでいったと。
複雑な気持ちになった。
悲しい。苦しい。
でも誰を憎めばいいのだろう。
政府だろうか、イスラム教だろうか、イラクだろうか、民の背負った宿命をだろうか。
でもへジャブに関しては、正直言うと、ちょっと気がまぎれている自分もいた。
そっか男も大変なんだなって。
兵役は現在もあるし、酒も(闇で高値で入手しないと)飲めないし、
女子が婚前交渉できないってことは男子もそうそうできないってことだし、
当然風俗店なんてないし。
ああ、なんだ、そんなに不平等でもないのか。。。なんて。
勝手な旅行者はどこまでも勝手なのだった。
そこで、ハッとする。
「不平等感」。「そんなのフェアじゃない」。
私の中にあった憤りの、一番大きかった要素を、感情を抑えて傍観してみたら、
あれ?と思った。
「平等」ってそんなに偉いんだっけ?
それってなに??真理?人類共通の価値観だっけ?
機会均等。完全にフェアな世の中。
これは新しくつくられた資本主義社会の価値じゃなかったっけ?
旅をしながら、たびたびこいつは顔を出してきて
それはすごく目立って、異様で、私をびっくりさせる。
そういう、平等思想みたいなもの。

ときに「GIVE&TAKE」という形で、「等価交換」という形で。
東京で暮らしていて、金額に見合ったサービスが受けられることに慣れていて、
何年も年俸で給料をもらっていて、それはまったく自然に
私の中に染み付いていた考え方だったのに
旅をしてから、違和感を感じる以外ないものになっていた。

旅は、私にとって「本当に大事なもの」と
「どーーーでもいいもの」を振り分け直す作業、
というか、どうでもいいものをじゃんじゃん増やし、
大事なものを突き詰め研ぎ澄ます作業じゃないかと最近気づいたのだけど、
この平等思想みたいなものは、私の中の
大事なものの棚からどーーーでもいいものの棚に移されてしまったのだと思う。
なぜかって、世界はもともと平等の仮面を被った不平等であふれているし、
GIVE&TAKEの概念が「私はこんなにやってるのに」とかそういう形で
夫婦関係とか友人関係とかに要らぬストレスを与えると気づいたし、
等価交換の意識がクレーマー根性を生むのと知ったし、
なにより、恵まれない環境下で力強く前を向いて生きる瞳の輝きをたくさん見たから。
見返りを求めない美しい心にたくさん触れたから。
南インドを旅していたときに出会った、1人旅のカナダ人の女の子を思い出した。
彼女は、インド人の女性達が可哀想だと言った。
アレンジドマリアージュで結婚相手も選べない、
離婚率の低さをあげてたとえDVがあっても離婚もできない、
社会進出の機会も少ない。ひどすぎると怒っていた。
インドの女性が幸せになるためには、男性と平等な、または先進国の女性たちと平等な
チャンスが与えられるべきで、人生に選択肢が増えるべきだと訴えていた。
(かつて女性の人権を学んでいた、大学生の頃の私と同じ意見だった。)
でもそのときの私の中では「ほんとにそれイコール幸せなんだろうか」って
ちょっと違和感があったのだけどうまく言葉に出来なかったのだった。
私が仲良くなったインドの女性達、例えば22歳のディンシーは、
処女で彼氏も作ったことないけど、マッサージの仕事をしながら、
親が決めてくれるであろうまだ見ぬ旦那様を、頬を赤らめながら楽しみに待っていた。
33歳のマリアは優秀で大学まで進み学者を夢見ていたけど、イケメンの彼氏もいたけど、
親が決めた夫の仕事を手伝うかたちで全ての夢を諦めた。
でもマリアはまったく畑違いの仕事を1から学び資格を取り、事業を拡大させた。
旦那は、結婚式で初めて顔を見て、式のあと初めて夜を過ごしたと。
ふたりとも初めてでうまくできなくてふたりでふき出してしまったと話してくれた。
「旦那はいい人よ。まあ、不細工だけどねー」とケラケラ笑いながら。
彼女たちの顔を思い出すと、カナダや日本のほうが「チャンス・選択肢があるから」
幸せなのだと言うことは到底できないと思えてくるのだった。
チャンスがあふれていようと、ありがたいと思えなければ、努力もできなければ、
機会が無限にあることは逆にプレッシャーやストレスになるだけじゃないかな。
好きな人と自由に結婚ができても、その関係を大事に育てていけなければ、
先進諸国のように離婚率が上がって傷つく子供が増えるだけじゃないかな。と。
メディアは成功者を取り上げて憧れを煽るけど、
そのときに自分の手の中にあるものをしっかり見つめることを忘れずにいたい。
私自身今まで、いろんな要因でスムーズな道が開けなかったとき不平を言ったり
人の境遇を羨んだこともあったけど、
要は、与えられたものに感謝し、欲しいものに対し努力する、
「生き方」が幸せを作るんだと思う。
文章にするとすごくキレイ事に見えるけど、インドで、ネパールで、ここイランで、
出会った人々の姿を通じてリアルに、学ばせてもらったことなんだ。

昔の日本人女性も、選挙権をはじめ色々な権利が保障されてなかった。
アレンジドマリアージュ(親が決めた結婚やお見合い結婚)も多かった。
女は社会に出るものではなく、家庭を守るものという考えが「当たり前」だった。
性についても、結婚するまでは操を守るべきとされていた。
昔の女性と現代の女性、どっちが幸せだったか、
おしなべて比べるものではないと思うけど、
現代の私たちが手にしているものを持っていなかったからといって
昔の女性が不幸だったとは思えない。
むしろ、羨ましいようなキラキラしたものもたくさん持っていたと思う。

 

 

 

ファザネとファテメとマエデと私、女同士の朗らかな時間を過ごす。
ファザネは、たとえ法律が変わり服装が自由になっても、
外ではスカーフを取れないという。これに慣れちゃってるから恥ずかしいと。
「恥ずかしい」・・・?
なんか心に残った一言だった。

9歳のファテメと4歳のマエデ。
私が母親のファザネと同じ年齢ってこともあってか、
ふたりを娘のような視線で見るようになっていた。
ああ、これから政治が変わらずファッションを楽しめないなら可哀想だな。
でも、規制がなくなったらイランはどうなっていくだろう。
日常的に眺めていた渋谷の少女たちを思い出した。
半裸みたいなキャミワンピとか、パンツやブラが見えちゃってる服装で
ラブホの乱立したエリアに大して好きでもない男と消える・・・。
電車の中吊りでも下着の若い女の子の写真や猥褻な見出しを見せられる。
隣に座った男が下品な漫画を見ている。
そういうのに慣れてしまった日々。

ぶんぶんと首を振る。
可愛いファテメとマエデの生きる世界がもしああなるくらいなら
今のイランで守られていてほしいと思う自分がいた。

 

 
 

思春期の頃、カタい考えの自分の親を「古いなあー」と思い、
性のことを明け透けに話す友人の母を「かっこいい」と思っていた。
大人になってからは、巷の女性誌と同じく
「“性の相性”は男性と付き合ううえで大事なポイント」とか、当然のように思っていた。
私は、
将来娘を持ったとして、何をどう教えていけるだろう。
考えてみたこともなかったけど、
今までの私は、
娘が思春期になったときに「ちゃんとコンドームしなさいよ」とか
分かってる母を演じるつもりだった。と思う。

今の私は・・・・・。
なんて言うかとか方法はどうあれ、
娘を全力で守りたいと思う。
娘に自分の操をしっかり守らせたいと思う。
スカーフを被らせるつもりもバージンで嫁に行けと言う気もないけど、
大切なんだと。
伝えたい。
もったいないことをしてはいけないと。
本当に大事な人にしか触れさせてはいけないと。
あなたの大切なものをぞんざいに扱うような、もしくはそう誤解されるような
みっともない服装はしてはいけないと。意思や夢やそういうものと一緒に、
貞操観念を持つことの大事さ、かっこよさを伝えたい。
 

 

 

 

夕暮れのシウセポール橋を見ながらそんなことを考えていたら、
スナックの袋を突き出し「食べる?」と話しかけてきてくれた2人。
女の子は皆、どこに服装チェックの警官がいるか知ってること、
たまに女子だけでホームパーティを開いておしゃれして薄着して
めっちゃ盛り上がるのだということ、などを教えてくれた。
大学で心理学を学んでいるという子(写真中央)は、真剣に交際している彼がいて
彼女の親は新しい考えの持ち主だから、たぶん結婚を許してくれると思う、と。
でも「そんな話題より」という感じで、勉強のこと、英語力のこと、未来のことを
熱く話してくれた彼女たちに、私は参りました、と思った。
旅行者の私は勝手に失望・絶望してたけど、この子たちは
前を向いている。
ヘジャブに異議を唱える(活動を起こして今も牢屋に入っている
勇敢な女性達もたくさんいるのだけど)だけじゃなくて、
苦しいけど、悔しいけど、
それはちょっと脇に置いておいて、自分自身の人生を輝かせようと頑張っている。
今回私たちに唯一写真OKをくれた若い女子だった。

 

 

 

 

 

 

真っ黒な衣装だらけの、地下鉄の女性車両。
初めて乗ったときは異様だと思った。気味が悪かった。悲しかった。
なんだかクスクスと楽しそうな内緒話の様子を眺める。
コスメやアクセサリーをたくさん持ったおばさんが商品を宣伝していて、
皆熱心に手にとって選んでいる。
次第に、男性に簡単に踏み込まれない女だけの時間、空間を
心地よいと思えている自分に気づいていた。

(美味しいケーキやシュークリーム、ソフトクリームが町中で売られている。
この点ではイラン人女性はインド人女性より幸せだなあ。インドにはまず生クリームがない。)
 

 

 

 

 

テヘランの中心部から少し離れ、大きなモスクを訪れてみる。
そこでは、私の服装でも駄目だった。
すると受付で、黒い全身を覆う布、チャドルを貸してくれた。
初めて手に取った。
重い・・・・ ずるずる落ちる・・・

通りがかりの女性が、きれいに直してくれた。

あんだけ、前は抵抗したレンタル衣裳
なぜだろう。ほんと不思議なんだけど、
ちょっと嬉しかったんだ。
実は着たかったのかもしれない。本格的なチャドルを。
めっちゃ暑いのに、すごく安心していた。
ほんとに不思議な気持ちだったんだ。

 

そんなことを、ホセイン家に帰って話したら、
なんだぁあるのに、と、ファザネがチャドルを着せてくれた。
9歳のファテメも当然持っていて、ふたりで着たらなんだか楽しくなって
手をつないで踊った。


マエデのはこれね。

 

 

 

 

帰国前。
みんなと別れたくないと本気で思っていた頃、
気づいたら、眉間のシワが出なくなっていた。

「オトシドコロ」
かどうかは分からないけど、
こんな感じで、私は、
憐みも怒りも絶望感もなく、愛しさと祈るような気持ちで
イランを後にすることになった。

 

 

 

と ・は ・い ・え。。

 
 

もう限界でした。。

 

 
 

飛行機が空中に飛び上がった瞬間、
機体が車輪をしまったと同時に、
ええ、脱ぎましたよスカーフ!

ぷっはーーーーー!
ええい!よくも!
こんちくしょーーーめ!!!
(その時の貴重な連続写真です)

 



UAEのシャルジャ空港に着いた。さすがの暑さ。イランと5度は違うだろう。
Tシャツに熱風を受けながら、久々の開放感を存分に味わう。
でもどこか違和感があった。なんか、急に裸で歩いてるみたいで恥ずかしい・・・。
街に出るバスに乗り込む。最前列に2席×両サイド分、女性専用の席が設けられていた。
自然にそこに乗り込む。走り出したバスが停車するたび次々に男性が乗ってくる。
程なくぎゅうぎゅうの満員になったバスは、私を除いて全員が男だった。
外国人だから、なんだろうけど皆の視線が刺さるように感じた。
逆サイドにある2席の女性用座席には男性が座ったが、
私は自分の隣1席の上に置いたバックパックをどけることができなかった。
意地が悪いとは思いつつ、できなかった。
さらに、私は何を思ったか、まったくおかしな行動を取った。
バッグから、スカーフを取り出した。
あれだけ嫌だったそれを、頭にかぶり、うなじと横顔が見えないようにした。

 

 

音速で大陸を一気にまたぐと、こういうおかしな感覚になることがあるんだ。
止まっちゃってるエスカレーターを階段としてのぼるような。
気持ち悪い、おぼつかない、オカシナ感覚。
脳だけが何かを覚えていて、その何かが手足をうまく動かさない、というような。
私はUAEの男性の距離感が嫌だったのだ。
それば微妙に、ほんの少しだけイランより近い、くらいの違いだったのだろうけど、
やめて来ないで見ないでと拒絶する何かが自分の中にあった。
残っていた。
 

おわり
(MIWA)