「ソーシャル合宿IN東北」は、定員にに達したため締め切らせていただきます。
ご応募、応援声援、ありがとうございました!
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旅をしていると、 移動のとき、夜ベッドの中で、
いろいろ考える時間がある。
とくに、「なんの足しにもならないようなこと」を。
東京で働いていたときは、毎日仕事のことばかり考えていた。
明日のダンドリとか悩み事とか、あれもしなきゃとか、具体的なことばかりだった。
旅してる間も、もちろん明日の予定やらブログの構成やら具体的なことも考えるんだけど、
なぜか遠い昔のある日の思い出がぽこっと出てきて
「あれはこういう意味があったのかな」と考え込んだり
当時の言動の浅はかさや自意識過剰さを猛烈に恥じてみたり。
はたまたいつとも知れない未来を、詳細まで妄想してみたり、
とにかくちっとも建設的じゃないことを考えることが多かった。
(それが、旅の本当の贅沢さなのかもしれない・・。)
そういう、旅の中での「なんの足しにもならないような」思考の中に
たびたび出てくる映像があって
(これとか、これもそうだけど)
それが私が幼い頃、4人の子を育てる若き日の両親の面影だった。
一番、何度も思い出したのは、ある冬の日のこと。
私が小学校2年生くらいだっただろうか。
当時苦しかった家計をなんとかするため、
秋葉原で一人住まいしながら働いていた父。
父に会うために 母と小さな兄弟4人で電車を乗り継いで行った。
上野公園で待ち合わせをし、西郷さんの銅像を見た。
末の弟はまだおんぶ紐で母の背にくくられていた。
半年だか一年だかぶりに会った父はとても痩せていたけど、
それでも格好よくて私は俳優みたいで素敵だと思った。
(ずいぶん後で聞いたが、昼間は電気屋、夜はバーと掛け持ちで働いたそうだ)
一家で浅草の仲見世通りを歩いた。
いつもは無口で厳しい父が、珍しく上機嫌で「何でも買ってやるぞ」と笑った。
私は嬉しくて、目を輝かせて商品を見回して歩いた。
そんな私をふと、当時小学4年だかの兄が引っ張りヒソヒソ声で言った。
「お金が大変なんだから、物をねだったりしちゃだめだ。」
でも生意気な私はこんなことを言った。
「違うよ。こういう時はね、無邪気におねだりしたほうが親孝行なのよ!」
無邪気とか親孝行とかって言葉を使ったかは怪しいが、そんなことを言い、
結局私はちりめんが施された民芸品、兄や弟は竹でできた鉄砲やらを買ってもらった。
すっごく、すっごく嬉しかった。
その夜、どこかの街角の辛気臭いホテルに泊まった。
和室6畳だったか、狭くて薄暗い部屋に、布団を敷き詰めて、兄弟でくっついて寝た。
父と母は穏やかな表情で、私たちを見つめていた。
私は、まるでこの世界には不安も不幸もなにもないように思えて、
なにも怖くないと思えて、満たされた気持ちで眠りに落ちた。
ずいぶん幼かった頃の思い出だから
事実とは違う部分もあるのかもしれないけど、
私はこの日のことを旅の間、何度も何度も、思い出した。
あの頃の私たち子供はお金のことなんてなにも知らなかった。
毎日笑い、幸せだった。
幼かったからかもしれない、いや、それは
母が一度も愚痴をこぼしたことがなかったからだ。
ただの一度も。ため息さえも見せたことがなかった。
新聞配達とパートを掛け持ち、0歳と5歳の弟の送り迎えをし、家事をし、
それでも母は、いつも笑っていて、愛にあふれていた。
私が当時の親の年齢になったからだろうか、
勝手にさまざま思いをめぐらし、
胸がぎゅっとなる。
どんなに大変だっただろう。 夫婦離れ離れでどんなに寂しかっただろう。
あの夜、私たちが寝たあと、二人は涙を流しただろうか。
苦労を分かち合い、温めあうことができたのだろうか。
そうだったら、いいのだけど。
それから数年して、父はさらに身体をガリガリにして、帰ってきた。
受験できる最終年齢で公務員になり、私たちは一緒に公務員宿舎に住めることになった。
私たち4人の子供は、毎日父を待ち、玄関まで迎え、一緒に夕飯を食べた。
父用の刺身や肉は美味しい部分が選ばれてたくさん盛られ、
よく父はそれを子供にも分けてくれた。食事が終わると子供たちで父の布団を敷き、
風呂あがりの父の身体に乗っかってマッサージをした。
これらはすべて、今思えば、母のしつけだった。
父が帰ってきてからの母は、子供たちが照れるほどに、父への愛情を隠さなかった。
一緒に住んでるにも関わらず、台所のシンクの目の前にはいつも、父の写真が
サランラップに丁寧に包まれ、張られていた。
忙しない東京の生活の中では思い出しもしなかった
こんな遠い記憶の断片をつなげながら、
たまらない懐かしさと愛情と尊敬を感じながら、
私は1つの思いを強めていった。
「二人に、海外旅行をプレゼントしたい」。
ずっと苦労をかけてきた両親に、パスポートも持ってない両親に、
生まれて初めての海外旅行をさせてあげたいと。
旅を始めて半年たったくらいにふと思いつき、
思いを温め続け、膨らませ続け、リサーチを続け、勇輝と相談し、
旅の最終地点。
ずっと、一番、したかったことを
ついに実行に移せるときがきた。
ハワイ。
ハワイに、私の父と母を招待した。
放蕩娘の、一世一代の親孝行だ。
それはそれは、
それは素晴らしい時間だった。
嘘みたいで、嬉しくて嬉しくて、
天にものぼるような、幸せな5日間だったんだ。
勇輝は、全日程車を借りてくれた。
私たちは毎日、たくさんドライブした。
父はダイヤモンドヘッドのビューポイントをいたく気に入ったようだった。
ハナウマ・ベイではシュノーケリング。私たちが必死に探しても会えなかったウミガメに
父と母は4匹も会ったそうで、子供みたいに興奮してあがってきた。で、ちょっと昼寝。
ロコモコとかマヒマヒとかハンバーガーも食べたけど、やっぱり毎食はキツいらしく
スーパーでカートいっぱいに買い物をして、毎日手作りの夕飯を食べた。
帰ってきて、順番にシャワーあびて、洗濯物干して、冷えたビール飲んで、
(ほぼ勇輝がつくる)夕飯たべて、リラックスしていっぱいおしゃべりして、
眠くなってきてそのまま流れで寝る。 ハワイでのそんな日々。たまらなく幸せだった。
サンドイッチを作って2度目のラニカイビーチ。気持ちよかったね。
母がこんなに泳ぐのが好きとは知らなかった。
この木なんの木も見に行ったね。いちおう元社員だしね。
この木の下でみんなで昼寝をしたのが、私の一番のお気に入りの思い出。
あっという間に5日間は過ぎた。
もっと、素敵なホテルを取ってあげたかった。
一回くらい高級ホテルでコース料理でも食べたかった。
二人に素敵な服でも選んであげたかった。
もっと、してあげたかったことはあったんだ。
でもね、
こんな笑顔を見られたから、
面白くて楽しくて仕方なかったから、
二人がとっても仲良しで幸せそうだったから、
精一杯の、私の「ありがとう」と「愛してる」を伝えられたと思うから、
充分だって思った。
最高。最高だよ。
嬉しくて、嬉しくてたまらない。
満たされた気持ちで二人を空港で見送り、
ホテルへの帰り道。
最後まで、「無事に帰ってきて」と繰り返していた二人を思い出し
ちょっとはっとする。
(まだ親になったことがないので当てずっぽうだけど、)
きっと、一番の親孝行は、
子の私が幸せで健やかに、生きていること。
いい顔して生きていること。なんじゃないかなと思った。
たぶん、ずいぶん開いて2番目が、孫の顔を見せること、かな。
一世一代の親孝行、
なんて気合充分臨んだけど、
ハワイ旅行なんてランキングの下のほうなんだろうなと。
でも、それでいい、と思う。
ただただ私は、これからも
ずっと あの日を、あの風景を、心に抱きながら進むのだろう。
それはとても素敵なことに思えた。
(MIWA)
PS:ラニカイビーチ含め、ハワイの情報を教えてくれて、
素晴らしい時間を 一緒に過ごしてくれた、隆くん彩ちゃんご夫婦、本当にありがとう。