今年の桜は、例年に増してしっかりと、
それはそれは美しく咲いたのだと聞いた。

父からは、近所の公園の見事な桜が
少しボヤケた写メで送られてきた。
その桃色の美しさ、よりも、写真の裏側にあるもの、
好きな人と一緒に見ている喜びとか
子や孫が無事成長した誇らしさとか
持参したお弁当の美味しさとか、
ああ春が来たのだという、瑞々しさを胸いっぱいに
吸い込んで膨らんだ幸福感がとても羨ましく、
眩しかった。
sakura

ああ、私はつくづく日本人なのだなあ、と
乾季で水量が3割になったガンジスの流れを眺めながら
感慨に耽っている。
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インド人と話すと、インドにもちゃんとSeazonはあると言い張る。
3つのシーズン。冬と夏とモンスーンだと。
でも私に言わせると大きな違いはない。
吐く息が白くなることもない。木々や花や、野菜の旬が大きく変わることはない。
悪いけど、あくまでシーズンであって季節ではない。
日本にある四季。これはなかなかすごいものだって改めて思う。
だって私はこんなに、桜が見たい。
日本人が、どうしようもなく桜が好きだという感覚は
インド人にはうまく説明できないだろう。
昨日インドの新聞に日本の桜のことが出てて
「たった2週間の開花に列島中が狂う」ってcrasyって単語を使って書いてあった。
クレイジー、そう表現したくなるのも無理はないかも。
今もし桜吹雪の中に身を置いたら、
私はたぶん意味もなく泣いてしまうだろう。

旅を進めて今もうすぐ4ヶ月。
「もう」なんだか、「まだ」なんだかは分からないけど、
ゆっくり、少しづつ、自分の中の変化を感じている。
なんとなく、色んなもの脱ぎ捨てると、楽になるのだな、と分かった。
色んなものって、物質的には東京の荷物とか身体の老廃物とか諸々なんだけど、
一番は、肥大化した自意識、だと思う。
パックリと開いてみたら、自分の中に「自分自分」がめちゃくちゃ詰まっていた。
時にどうしようもなく重く苦しくなったのは多分こいつのせいだ。
旅に出てから、自分の中で、自意識とそれ以外のものが闘っている場面に
何度も出くわした。でも、往々にして自意識が勝ってしまうんだ。
辛いよ、こんなの嫌だ。快適がいい。自分が可愛い。自分が自分が、と。
この自意識過剰にはどうしたもんか、と思っていた。

さらに前に進むには一度、
そのぶよぶよに膨れた自意識をできるだけきれいに拭い去って、
一回、謙虚にならなくちゃいけない。そう思った。
自分は何者でもない。
ただのちっぽけな人間だと。
大きな宇宙の地球の中の自然の中に転がった
なんの変哲もない有機体だと。

いくらでも聞いたことのある表現だけど、
「実感」するのは難しかった。
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でも今、毎日死んだ人がぼんぼん燃やされる街にいて、
それがすごく自然なことで、私もいつか燃やされるって知って
何者でもない自分をすごく感じられている。
(またすぐ自意識過剰が戻って来ちゃうんだろうけど)

そこから、すべて始まるような気がして、
なんだか今、わくわくしている。

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中学からの親友が、大きな桜の木のある家に住んでいる。
私もいつか桜の木を庭に植えたいけど、毛虫がいっぱい出るだろうな、と
確かコーチンあたりからメールを書いた。
彼女からの返信。
「桜の木には毛虫が出るけど、ちゃんと鳥が食べにきます。
すべてはつながっているんだよ。木も虫も鳥も、人と大地も、美和と私もね」。

こんなに「何者でもない」自分になったら、
こんなに、あらゆるものと繋がっていた。
昔、何かと繋がろうと、誰かをつなぎ止めようと、
相手の中での自分の位置を必死に確認しながら居た頃には、
なんと頼りなく不確かなものかと思ってたのに。
今は根拠もなく大丈夫と思える。
繋がってると「信じる」ことができる。



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ふっと思い出した。5、6年前に、
大好きなフォトグラファー三ツ谷さんの作業場で見つけた張り紙。
写真がPCの中に残っていた。
「なにかこういうテーマで写真が撮れないかと思って・・・」と
照れ笑いしていた三ツ谷さん。
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元気ですか。「つながる」っていう写真は、撮れましたか。

ちょうどその頃撮った桜。
(“ゼクシィっぽい”イメージを自分達でやってみたおバカな写真)
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徹夜が続いた青春。へとへとだったね。
私たちは桜だけはよく見にいったっけ。
今も変わらず大事な人たち。

もういい大人。
この辺で、もう大きくは伸びない、変わらない、
こういう日々がずっと続いていく、
そう感じたところから更に、人はまだ変わることができるのだろう。
導いてくれる先生は、やっぱり自然なんじゃないかな。
自然って表現じゃなくてもいいんだけど、
自意識の外にあるすべてのもの。
老人や子供、人間のいのちや営みも含めた、
牛や犬や蜜蜂も花も含めた、
大地や風や雨や波、星、
ずっと繰り返されてきたことや
大いなる力を、自分の中に感じることじゃないかな。

私たち夫婦の大好きなフォトグラファー、見城さん
(このブログの自己紹介写真も撮ってくれた)は、時々山に登る。
頭の中の雑多なものを空にし、大自然のエネルギーと、
間違えば死ぬかもしれない本物の畏怖を実感しに登るのだと言った。
フラウの取材で出会った「美ジョガー」は、
自分を解き放ちプリミティヴな感覚になるために走るのだと言った。

旅や移動することも、自然を感じやすい状態、
自分を開いた状態にもっていきやすい、1つの手段なのだろう。

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自然と自意識のバランス。
今までかなり悪かったんじゃないかな。
自意識のボリュームを下げたら、もっと軽くなれるのかもしれない。
もっと人は、繋がれるのかもしれない。
そんなことを考えた。

桜は、1つ1つの花は小さく可憐で儚い。
でも1つの木になったとき荘厳な美しさを放ち、人々の胸を打つ。
私も、ちっぽけな花の1つとして、
繋がっている人々と一緒に大きな木を形づくって、
いつか誰かを笑顔に、幸せにできたら、
それでいい。
それが、いいな。

(MIWA)

桜と自意識
今年の桜は、例年に増してしっかりと、それは美しく咲いたのだと聞いた。
父からは、近所の公園の見事な桜が少しボヤケた写メで送られてきた。その桃色の美しさ、よりも、その写真の裏側にあるもの、好きな人と一緒に見ている喜びとか子や孫が無事成長した誇らしさとか持参したお弁当の美味しさとか、ああ春が来たのだという、瑞々しさを胸いっぱいに吸い込んで膨らんだ幸福感がとても羨ましく、眩しかった。
ああ、私はつくづく日本人なのだなあ、と乾季で水量が3割になったガンジスの流れを眺めながら感慨に耽っている。
インド人と話すと、インドにもちゃんとSeazonはあると言い張る。3つのシーズン。冬と夏とモンスーンだと。でも私に言わせると大きな違いはない。吐く息が白くなることもない。木々や花や、野菜の旬が大きく変わることはない。悪いけど、あくまでシーズンであって季節ではない。日本にある四季。これはなかなかすごいものだって改めて思う。だって私はこんなに、桜が見たい。日本人が、どうしようもなく桜が好きだという感覚はインド人にはうまく説明できないだろう。昨日インドの新聞に日本の桜のことが出てて「たった2週間の開花に列島中が狂う」ってcrasyって単語を使って書いてあった。クレイジー、そう表現したくなるのも無理はないかも。今桜吹雪の中に身を置いたら、私はたぶん意味もなく泣いてしまうだろう。
旅を進めて今もうすぐ4ヶ月。「もう」なんだか、「まだ」なんだかは分からないけど、ゆっくり、少しづつ、自分の中の変化を感じている。なんとなく、色んなもの脱ぎ捨てると、楽になるのだな、とだけは分かってきた。色んなものって、物質的には東京の荷物とか身体の老廃物とか諸々なんだけど、一番は、肥大化した自意識、だと思う。パックリと開いてみたら、自分の中に「自分自分」がめちゃくちゃ詰まっていた。時にどうしようもなく重く苦しくなったのは多分こいつのせいだ。旅に出てから、「自然」と「自意識」が自分の中で闘っている場面に何度も出くわした。でも、往々にして自意識が勝ってしまうんだ。辛い、こんなの嫌だ、自分が可愛い。自分が自分が、と意識が膨らんでしまう。思春期じゃあるまいし、この自意識過剰はどうしたもんか、と思っていた。
さらに前に進むには一度、そのぶよぶよに膨れた自意識をできるだけきれいに拭い去って、一回、謙虚にならなくちゃいけない。そう思った。自分は何者でもない。ただのちっぽけな人間だと。大きな宇宙の地球の中の自然の中に転がったなんの変哲もない有機体だと。いくらでも聞いたことのある表現だけど、「実感」するのは難しいこと。そこから、すべて始まるような気がする。なんだか今、わくわくしている。
中学からの親友が、大きな桜の木のある家に住んでいる。私もいつか桜の木を庭に植えたいけど、毛虫がいっぱい出るだろうな、と確かコーチンあたりからメールを書いた。彼女からの返信。「桜の木には毛虫が出るけど、ちゃんと鳥が食べにきます。すべてはつながっているんだよ。木も虫も鳥も、人と大地も、美和と私もね」。
こんなに「何者でもない」自分になったら、こんなに、あらゆるものと繋がっていると感じられた。昔、何かと繋がろうと、誰かをつなぎ止めようと、相手の中での自分の位置を必死に確認しながら居た頃には、何と頼りなく不確かなものかと思ってたのに。今は根拠もなく大丈夫と思える。繋がってると「信じる」ことができる。
5、6年前に、大好きなフォトグラファー三ツ谷さんの作業場で見つけた張り紙。なにかこういうテーマで写真が撮れないかと思って・・・。照れ笑いしていた三ツ谷さん。もしかして彼もこういうことを考えていたのかな。
もういい大人。この辺で、もう大きくは伸びない、変わらない、こういう日々がずっと続いていく、そう感じたところから、人はまだ変わることができるのだろう。導いてくれる先生は、やっぱり自然なんじゃないかな。老人や子供、人間のいのちや営みも含めた、牛や犬や蜜蜂も含めた、大地や風や雨や波、星、本物の自然を、自分の中に感じることじゃないかな。私たち夫婦の大好きなフォトグラファー、見城さんは時々山に登る。頭の中の雑多なものを空にし、大自然のエネルギーと、間違えば死ぬかもしれない本物の畏怖を実感しに登るのだと言った。フラウの取材で出会った「美ジョガー」たちは、自分を解き放ちプリミティヴな感覚になるために走るのだと言った。旅や移動することも、それを感じやすい状態、自分を開いた状態にもっていきやすい、1つの手段なのだろう。自然と自意識のバランス。自意識のボリュームを下げたら、軽くなれるのかもしれない。もっと人は、繋がれるのかもしれない。そんなことを考えた。
桜は、1つ1つの花は小さく可憐で儚い。でも1つの木になったとき荘厳な美しさを放ち、人々の胸を打つ。私も、ちっぽけな花の1つとして、繋がっている人々と一緒に大きな木を形づくって、いつか誰かを笑顔に、幸せにできたら、それでいい。それが、いい。
(MIWA)