旅を通じての学びは多くの場合、
現地の人々との触れ合いから生まれるが、
ここペルーはリマでは、
今までと少し違った「現地の人々」
との出会いから、多くの学びと刺激を頂くこととなった。

*

スペイン語学校とサーフィンに明け暮れたリマ滞在中、
実は一度現地のお医者様にかかった事がある。
バルセロナでパンデミックを起こしたひげ菌がまだ体内にいたのか、
咳が止まらなかったのだ(海外旅行保険に感謝)。


わざわざ往診に来て頂いたのはボニージャさん、日本留学経験があり日本語堪能。超堪能。


宿の共有スペースでこの状態。幸い喉に少し炎症がある程度で大事ではなく今は全快です。


(南米旅行中に妊娠するリスクについてちゃっかり相談する妻。お前そんなことを考えて・・・)

ボニージャさんがあまりに感じの良い方だったので、
帰り際に美和が一言、「あ、もし良かったら今度食事でも。。。」。
こうしてご友人のカルロスさん
(同じく日本留学経験ありで日本語超堪能な経済学者)
の宅でご友人のディーナさん含めての日本食ナイトが実現した。


(美和中心にyuta君と3人で作った唐揚げ、お好み焼き、茄子の豆板醤炒め。超好評だった!)


(カルロスさん宅はミラフローレスの海から徒歩5分のマンション、キレイだった)


(今度ペルーに来るロボットの博士の写真とともに)

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その翌日。聞くとお2人が主催する「日本語を話す会」
なるものが「日秘文化会館」 で行われるとの事でお邪魔することに。
リマ在住の移住者、日系人、それにボニージャさん達のように
日本語を話すペルーの方々が2週間に1度集まっているとの事。


(リマのヘススマリアという地区にある。JESUS MARIA、ジーザスとマリアか。)


(いわゆるカルチャーセンター、色々イベントもやってるよう。)


(こういうの、懐かしかった。)

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毎回参加者は多少変わるらしく最初は僕ら含めて自己紹介から始まったが、
会は司会もお題目もなく、お菓子食べながらひたすら雑談形式。
60オーバーのご年配から30代と思しき方々まで合計8名。
みんな素朴で、真面目そうな方々で場は少し固い雰囲気、
日本にいたらなかなか体験しないだろう異空間だった。

中でも圧倒的にお話をされて会をリードされていたのが、山本さんだ。


(会が終わってからもガンガン喋っていただいた)

中学を卒業し、17歳の時に家族を追う形で渡秘、
以来レストランから農業から空手教室から観光事業から、
あらゆるビジネスをされて来たそうだ。

中でもアマゾン地方で農業 をされていた時の話は、
まさにNational Geographicものだったようで、とても面白かった。

生の蛙やねずみ、ピラニアから、
変な葉っぱを口でくちゃくちゃ噛んで吐き出して作るペルー版どぶろくなど、
何でも食って飲んでの生活をしてきたというお話。
住み込みで現地人を雇って1か月分の大量の食料を渡したら
3日で食い尽くしたというお話
(アフリカもよく聞いたけど、地方の人たちは今日を生きており
「計画する 」「保管する」という概念が無いよう)、
リアリティ満載だった。

数十年前のジャングルに単身乗り込み、
自然や病気と闘いながら現地人と共に土地を耕し、生計を立ててきた。
いくつかの体験談から少しは想像できるものはあるが、
恐らくその苦労や現実は僕の想像を遥かに超えるものだろう。

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もう1人印象に残った方がいる。
第2次世界大戦で原爆の被害を経験されている方だ。

原爆投下時、氏は爆心地から10km離れた瀬戸内海の島に
疎開していたため被爆はしなかったそうだが、
2km先に住んでいたご家族は被爆されたとのお話をして頂いた。

「でも被爆の影響はまったくありませんで、今も兄弟は健在ですねぇ」
ゆっくり、さらりとお話されたが、
その言葉の重さに一同雰囲気を変えて話に聞き入った。

「でも、終戦後はそれはそれは大変でしたなぁ。
学校に行っても教室が無い。瓦礫の中で勉強をするのですが、
とにかく冬が寒くってねえ。かろうじて残っていた黒板を燃やして暖をとりました。
食べるものも無く、バッタからザリガニから草から、何でも食べました。
ひもじくて、寒くて、女の子達はみんな泣いとりましたなあ。」

なんだろう。
そのストーリーの生々しさもそうだが、
淡々と語るその姿に、何故だか胸が熱くなった。

氏がその後どのような経緯でペルーに渡られ、
現在にいたるのか残念ながらお聞きできなかったが、
今までの苦労はどれだけのものだったのだろう。


(日系人の会を主催するペルー人と「友愛」、なんか好きこの写真。)

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ペルーへの日本人移住の歴史は明治時代までさかのぼる。

ブラジル移民の開墾苦労話は有名だが、
実はペルーはブラジルよりも先に移民が始まっており、
同じように、厳しい自然環境の中の過酷な労働の歴史があるようだ。

出稼ぎ要素の強かった明治大正時代の移民から、
第2次大戦後は国土確保のため国策的に移民が推奨され
多くの日本人がペルーに渡り、
今日、在ペルー日系人は8万人(海外日系人協会)に上る
(一説には数十万人とも言われているとのことだが)。
この数字は日系人移住先 の世界5位にあたり、
「NIKKEI」という言葉が使われていたり
ビーサンの事を「SAYONARA」と呼ぶなど、
街ではこの国での日本の浸透度を感じることもできる。

上記のお2人はいずれも大戦後の移住一世の方々だが、
彼らの語るさまざまな体験談や
「2世3世となると日本人特有のおくゆかしさのような資質が
全く無くなってしまい残念ですなあ」
などといった日系人社会の難しさのお話は、
平和ぼけインターネット世代の僕に強いインパクトを残した。

そして何より、今目の前で、立派な建物の中で、
そんな経験をした彼らと一緒にインカコーラを飲んでいるという事実。

いけエリア”ミラフローレス”、サーフィン、スペイン語学校スクールライフ。
それらでしか無かった僕らの「ペルー首都、リマ」 が、
時間軸においてグゥーンと広がったような感覚があった。
そして、この目の前にある「今」は、
長い歴史の先に存在し、先人達の血や汗や涙の結晶なのだ、
そんな事を感じた。

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とにかく、ちょっとまとまらないけど、
素敵な体験でした。ありがとうございます。

彼らのお話を聞いていて、姿を見ていて、発する雰囲気を感じて、
いやもう、恥ずかしくなりました。
歴史を、過去を、何も知らない自分。
そしてたいした苦労もせずにヒィーヒィー言ってる自分。

今できる事は、とにかく真摯に人々と向き合うこと、
謙虚な姿勢で学んでいくこと、だけです。

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p.s.
会の後はカルロスさんとディーナさんとディナーへ。
いつもよりはちょっと値がはったけど、お2人オススメの、
特大サイズの肉の塊をひたすら食う人気レストラン。

ここではフヒモリ(フジモリ)大統領のお話などを伺う。
後でフヒモリ史をググって軽く勉強したけど非常に興味深い。
いやーやっぱ楽しいわ旅、を実感する1日でした。