ダイビングでお世話になったタテキングという旅人がいる。
マラウィ湖畔の小さな村で出会い、
真っ暗な村の中、客の全くいない怪しい食堂で、
信じられない量の鶏炒めとシマを食べながら激アツく語った。
「日本を南アフリカのように旅しやすい国にしたい。」
彼が口にしたこの言葉は、旅の後の人生について大局的に考えるきっかけくれた。
その半年後ボリビアでばったり出会い、更に半年後、メキシコで1週間行動を共にした。
アジア、ヨーロッパ、北米は完全スルーして、
聞いたことないような中央アジアの国やイラクにソマリアなど、
2年間かなりコアなデスティネーションを選んできた彼は、
メキシコに惚れこみ、もう4ヶ月メキシコにいると言う。
「波が来ていた。そして、それに乗ったんだ。」
彼はその状態をこう表現した。
2年も旅をしていると、さすがに感動が薄れたり飽きがきたりする。
また何をやってもうまくいかない時や、無性に疲れる時もある。
逆にとにかく楽しくて充実してる時、出会いがバンバン訪れるような時もある。
というか、これは旅に限ったことではない、仕事頑張ってた時もそうだった。
そう思うと、波という表現はなんとも合点がいった。
波がきていない時には何をしても波に乗ることはできないし、
波がきたとしても、正しい場所で正しく動かなくては置き去りにされてしまう。
バタバタせずその時をじぃーっと待って、
沖の方をしっかり見つめて、うねりの盛り上がりを見逃さず、
ピークへ向かってパドルし、タイミングよく波をつかまえる必要がある。
彼の場合はブラジルでカーニバルに太鼓隊として参加しその感覚を発見し、
2度目の波をメキシコでキャッチしたと言っていた。
出会う旅人たちは、同じように抽象的な表現を使う事が多いように思う。
インドなどに使われる「呼ばれる」というのもそうだし、
英語でも例えば「connect」とか「gravitate」、「protect」といった単語が
感覚的な形で使われる事がよくある。
現実離れした世界で調子に乗っちゃってるだけと斜めに見られるかもしれない。
でも、僕はそこに何らかの真実を見たい。
旅することで時間的、精神的な余裕と、様々な刺激を得た旅人たちが感じている、
物質的でなく精神的で、時に宗教的で、直接言葉で表現できないような「何か」に。
長い目で見れば僕は4年前に旅という波を見つけ、
2年前からずっとその波に乗ってきたのかもしれない。
感覚をとぎすまし、焦らず、おごらず、惑わず、次の波を見極めたいと思う。