風呂なし物件ゆえ、京都での新生活は銭湯にお世話になっている。夕方に行くか、食後寝る前に行くか、どちらかのパターンだ。

徒歩5分圏内に3軒あるのだが、いずれも良い。とても良い。何が良いかを言葉にするのは本当に難しいのだけど居心地がいい。レトロな空間がノスタルジックで…、もあるのだろうけど、何か違う理由がある気がする。

京極湯。死にかけてそうで生きてる京極商店街がたまらない
白山湯はサウナ室が特別。演歌のかかる薄暗いコクピットが別世界に連れていってくれる
一番個性は少ないか?でも好きな長者湯
近所じゃないけど話題の梅湯。銭湯マニアが経営を譲り受け新しい感覚でやっていて、壁新聞があたり無農薬野菜が売ってたり。美和はツボってたけど、コマーシャル感が入ると全く別のものになると感じた

銭湯の数は急激に減っている。京都もここ50年で500軒以上から200軒弱になったよう。昔はお風呂がない家が多かったけど(1968年に55.4%!)、今はほとんどの家に風呂があるから。

そう、言うまでもないけど銭湯は、家の風呂の代わりだ。

誰もが衛生的な生活を送れるための、福祉的な/ウェルフェアの性格を持っている。だから条例で料金も定められている(京都府は大人450円小学生未満60円→1家で1日1020円なり)。銭湯の減少に反してスーパー銭湯が増えていることとか、流行りでサウナー達がドヤってるのとは、全く違うものだ。

銭湯はシェアリングエコノミー?

自分で所有するのではなく、誰かとシェアをする。宿も、タクシーも、車も、なんなら家も。機能を外部化、流動化することでとっても便利でリーズナブルになる。シェアリングエコノミー万歳!そんな時代を僕らは生きている。

風呂を町でシェアするんだから、銭湯もシェアリングエコノミーのはずだけど、この違和感はなんだろう?

目的が違うと思う。
個人が、自分の利益を最大化するため、というエコノミーの文脈。それと、誰もが健康で文化的な生活を送れるためというウェルフェアの文脈。この違いは決定的だ。

関係ないけど大好きな船岡温泉の写真挿入。ちょっと遠いけど西陣のレジェンド。もうすぐ90年

番頭のおばあちゃんに顔を覚えてもらって他愛もない会話をすること。不機嫌だったり優しかったりするじいちゃん達(銭湯の利用者はほとんど高齢の人か若者だ)と接すること。背中にすごいアートを背負った怖そうな方々としばしばご一緒すること。

はっきり言って便利さより煩わしさの方が多い。でも、エコノミーの文脈では味わうことのない、あたたかさや安心感がある。少なくとも自分には、とてもとても価値が高い時間だ(それは僕がずっと東京で生まれ育ってきたことと関係があるのだろうか)。

そんな話をしていたら、「銭湯に通ってると、町に愛着が湧いてくるよね」と美和が言った。そう思う。色々なものを個人化して関係を断つことで心地よさを得てきが、機能を社会化して町や人と接続することで、煩わしいけどあたたかくなれる

コミュニティという横文字が苦手なんだけど、そういうんじゃなくて、銭湯くらいほどよい距離で町とつながってるっていいなって思う。そしてこれは、ウェルフェアじゃなくてウェルビーイングの話なんだと、ポカポカ帰り道に気づいた。